「座禅」による瞑想が「マインドフルセット」として科学的な効果が立証されていることで、日常的に座禅を組む習慣を実践しておりますが、その延長で「禅」などの「仏教」への興味が湧いてきました。
とはいえいきなり、難しそうな「仏教」の本を読むのはシンドいだろうと思い、「カジュアルに読めるだろう」と思って「みうらじゅん」さんの「マイ仏教」を読んで見ましたが、これがすごくよかった。
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真剣な「仏教徒」ではなく、あくまでも「趣味」の延長。
元々は、異形の偶像としての「怪獣」に近いシンパシーを「仏像」に対して感じたことから、みうらじゅん氏の仏教への傾倒が始まっていくのですが、ご存知の通りとにかく多趣味でいろんなことに興味が出てきてしまう彼の性格なので、当然「仏教」そのものに完全にのめり込むというわけではなく、自分の「趣味」「嗜好」にフィットすることをピックアップしていっているというのが彼の中の仏教の捉え方。
仏教の教えそのものを実践しているわけでもないし、強い信仰を持っているわけでもない。
だけども、お釈迦様の言葉や教えを、自分の生き方に置き換え、自分の中でフィットする「言葉」として消化し、それを実践しているということがよくわかります。
「諸法無我」を、「本当の自分なんて存在しない」すなわち「何かに影響され、それになろうとしている自分は自分ではない」と捉え、かつて自分が憧れたボブ・ディランや吉田拓郎に少しでも近づけようと「自分をなくし」、模倣についとめたものの、結局憧れの人物にはなれなかったという本来「コンプレックス」となる部分こそが「個性」であり「本当の自分」として認めるべきだと。
つまり、「自分探し」がしたい人は「自分なくし」を始めたほうがいいっていう考え方は本当に目からウロコでした。
本質的に頭良すぎるんです、この人。
自分の人生を「修行」として楽しむ姿勢
祖父の死によってコレクションが遺品として散逸していくという身近な実体験の中で「諸行無常」を実感したにも関わらず、ついつい「変なもの」「大好きなもの」をコレクションしてしまっている自分の矛盾について、モノを集めるということは、自分が死んでしまえばその価値は変わってしまうという「モノを手にいれることの虚しさ」を知るための「修行」と捉えているそうです。
他にも「嫌いな人とコミュニケーションをとらないといけないこと」も「修行」として捉えるとか、「一切皆苦」という仏教の教えに基づき、人生における「楽しみ」も「苦しみ」も全て「修行」として捉えているものの、どうにもそれがネガティブな感じではなく、むしろ「修行」という「ゲーム」を人生の中で楽しもうとしているところが面白い。
その際たる考え方が「グレート余生」という、生まれてから死ぬまでを「余生」と捉え、遠い未来の人生(余生)を楽しむための今ではなく、生まれたその瞬間から死ぬまでの期間を「余生」と捉えることで、人生における「楽しみ」「苦しみ」も全て楽しもうという考え方。
根底にあるのは、仏教の教えではあるものの、彼自身の生き方の中で、それを自分なりに解釈して実践しているからこそ、なんだかよくわからないけど楽しそうなことをして生きている人って見えるのでしょう。
みうらじゅんが、みうらじゅんである理由が見えた
「なんだかよくわからないけど、楽しそうなことをして生きている人」という「みうらじゅん」の生き方は、昔から「ある意味でも究極の生き方」だと憧れていましたが、彼自身はそんな世の中が自分に対する目線に対して「それに応えようとしなければいけない」とも感じてはいるようです。
それも一つの「諸法無我」の考え方なのかもしれませんが、彼の面白いところは、そんな世間からの自分へのイメージに対して「そういうイメージに対して応えようとすること」自体を「修行」と考えているそうなのですが、それも結局は「そうすることで、自分がいつまでも楽しいことをして生きていくことができるから」というすさまじくポジティブな解釈をしています。
「諸法無我」だからこそ、世間の目に映る「楽しそうなことをして生きている自分」を裏切らないように、常にアンテナを広げ続ける「修行」をする。
ものすごい努力家で勉強家だからこそ、みうらじゅんがみうらじゅんであり続けられるんだろうなって思いました。
「好きこそものの上手なれ」という言葉もありますが、「好きだからこそ努力する」わけであり、「好きなことに苦労をするのは本末転等」だから好きなことを仕事にしたくないっていう人も多いですが、彼の場合は「本当に自分が好きなことをして人生を生きる」ために、好きなものを突き詰める「苦労」や「努力」を惜しまない。
セルフブランディングっていう言葉が頭をよぎりますが、みうらじゅんの解釈で考えると、「諸法無我」の考え方がすごいしっくりきます。
今みたいな生きづらい世の中で、みうらじゅんのような生き方はつい憧れてしまいますが、芯となる考え方とそれを実践する努力というものが、あるからこそできることであり、それは今の自分の生活や会社暮らしの中でも、まずは自分をなくし、自己を見つめた上で、自らに「修行」を設け、それを楽しむことによって「なりたい自分」を謳歌できるんだろうなって思いました。