今更説明不要、日本のポストロック/インストゥルメンタル界の至宝「toe」
10代の頃、the get up kidsに始まり、エモに傾倒していた僕はとにかく「toe」が好きで好きでたまらないのである。
そして、その中でもバンドの中心である「山嵜廣和」さんに男として、人間として本当に憧れているのだ。
スポンサーリンク
toe=副業なのか
クラムボンのミトがプロデューサーとして参加したり、木村カエラ、5lack、土岐麻子など、今をときめくミュージシャンとのコラボや、旅雑誌「TRANSIT」の代表であり「non native」のフラッグショップである「Vendor」のプロデューサーであり一色紗英の旦那さんでもあるサーフェン智が映像作品に参加するなど、いかにも東京のイケてるシーンとのハブを持ちつづけつつも独自の世界観を広げ続けていくtoe
そんなtoeのメンバーは全員がバンド活動とは別で自分たちの本業があることはよく知られています。
とはいえ、ドラムの柏倉さんはthe hiatusや木村カエラなどに参加しているミュージシャンですし、ギターの美濃さんもレコーディングエンジニアだったりするので、半分は音楽関係者なのですが。
山嵜さんは、「Metronome Inc」の代表として内装デザインを本業にしており、セレクトショップ「Vendor」や自身の事務所とアパレルブランド「bal」、「女性にやさしいハードコア集団」こと「Jazzy Sport」が併設された五本木のオフィス、有名どころで言えば、京都にある元学生寮をリノベーションしたホテル「Anteroom KYOTO」なんかを手がけてます。
いっぺん泊まりたいよ、「Anteroom KYOTO」
フジロックでGreen stageに出たり、台湾やアメリカ、ヨーロッパなどからオファーがあって海外公演もするなど、日本だけでなく海外でも人気のあるtoeをやっていながらも、本業を持っている、というのは一般的な感覚からするととても違和感があります。
ただ、それは山嵜さんが若かったころ、身近な世界でスターだと思っていた人たちの生々しい現実を見ていたからなのです。
もともと、自分でオリジナルの曲を作ってバンドをやろうと思って、そのシーンにいて見えていた人たちには、音楽で飯を食えていたバンドはひとつもなかった。僕らからしたら、ロフトがいっぱいになるような超スーパースターでも、みんなバイトしながらやってたんですよ。
(中略)
もし成功例が先にあって、それに向けてバンドをやったら、フルタイムでバンドだけやってればいいとか、お金もらっていくんだとか、こんな大きなところでできるんだとかあったかもしれないけれど、もともとの成功例がないまま、普通にやっていたから、「食えなくて当たり前」という感じでした。
バンドマンの世界については正直わからないものの、クラブシーンにおけるDJというのも近いものがあります。
僕が20代の前半から後半にかけて神様だと思っていた日本のDJの人たちは、当然ながらフルタイムのミュージシャンとイコールではなかった。
DJの場合、現場でのプレイによる報酬だけでは成り立つ筈もないので、当然トラックを制作するなり、別のアプローチがあってようやく職業として成り立つか成り立たないか、っていうものではあるので単純に比べることはできないかもしれませんが、プレイヤーとしてのDJを突き詰めるという意味では僕が憧れていた人たちのほとんど多くは、あくまでも本業は別にある、というのが当たり前でした。
確か磯部涼さんの文章だったと思いますが、90年代までは職業DJというのがある程度選択肢として存在していたものの、00年以降のオルタナティブなクラブシーンの流れの中では、本業は別で持った上で DJとして活動を行う、というスタイルが定着していった、みたいなことが書いてある文章をかつて読みました。
ただでさえクラブシーンって、日本においてビジネスとして成り立っていない、すなわち成功例がほとんどないような世界なので、「俺はこれで食っていくんんだ!」っていう流れは少なく、「職業として成り立つもの」として捉えにくいし、身近な成功例も感じ取りにくい、というのはありますね。
山嵜さんの場合、上述の通り「成功例がない中で、自分がやりたいことが金にならなくて当たり前だった」というのと、「ミュージシャンになることが目的ではなかった」
さらに言えば、山嵜さんは数年前に奥さんを亡くしており、男で一つで二人の娘を育てています。
インスタなんかを見ると、驚くほど手の込んだ料理を毎日作っていたりします。
父親としてだけではなく、母親の分も子供達を支える存在として本業と家事/育児を両立する、ただそれだけでも非常にハードなことは想像にたやすいですが、そのような状況の中で、バンドを続けていくというのは、普通に考えたら無理ゲーです。
そんな中でもtoeとしての活動を続けていくことは、ある意味で「金にならなくて当たり前」だった現実を早々に受け入れることができたからこそ、「バンドをやりたい」という純粋な思いをブレることなく保ち続けてきたからのではないだろうか。
いろんなインタビューを見ても「音楽家」ではなく「バンドマン」という意識が強いことが伺える。
ミュージシャンとしての成功を良い意味で諦めていた上でバンドを組んでいた、というベースがあるからこそ、生活を支えるための本業があり、支えるべき家族を守りつつ、バンドとしての活動を良いバランスで続けているのかなと、そんな風に思います。
副業、というよりも、山嵜さん自身の人間としてのバランスを支える要素の一つ、なのかなと思います。
スーパーマンにはなれない、だけど
ここまで、音楽的なことはあまり語ってませんが、当然toeとしての音楽性は、当時ダンスミュージックに傾倒していた自分の奥底にあった、「エモ」に傾倒していた自分の琴線を強くかき鳴らし、それは今なお変わらずに進化し続ける音楽性についても常に感動と驚きを与えてくれるものとして、好きなバンドであり続けるわけではありますが、それ以上に一人の男として、山嵜さんの生き方に魅力を感じているわけです。
ある意味僕も含めた会社員をしつつ、家族を持った男性にとってはなおさら感じるところがあるんじゃないだろうか。
どこかで自分のバランスを保つ何か、というのも持ちたい、という気持ちはありますが、一人の体ではない以上、割ける時間も労力も限られてくる中でいろんなものを諦める必要があるのは避けられないこと。
何かを諦める、その度に一つ言い訳が増えていく。
そうやって、かつての自分を羨むように一つずつライフステージを上がっていく自分にもまた自己嫌悪していく。
男の子として生まれた以上、大なり小なりスーパーマンになりたいと誰しもが思うのだと個人的に思っていますし、将来を考えるタイミングでは大きな希望や夢を描くもの。
年を取るごとに、描いた理想はシュリンクし、どんどん小さくなっていくと感じる自分の姿。
でも、それは当たり前というか、現実を受け入れたくないから、なんだと30を過ぎたあたりで理解し始めました。
現実を見ることで、軌道修正をかけることはできる、それも若ければ若いほど小回りは利く。
現実を受け入れた上で、未来に向けてどう動くか、立ち止まっては周りを見て、都度舵をとる。
それを若いうちにどれだけ意識してできるかで、人は差がついてしまうのだろうと。
誰しも完璧なスーパーマンになることはできない、だけどもその時々の風向き、足元の状況を鑑みた上で行動に移すことで、なりたい自分に近づきつつ、守るべきものを守りながら自分のペースをうまくコントロールすることはできるのかもしれない。
20代の頃の僕にとっての山嵜さんはスターであり、スーパーマンだったけれど、30代を迎えた自分の心境から改めて見たときに、音楽以上に生き方そのものに強い憧れを感じたのも、まさにそこであり、スーパーマンになれなくても、年を重ねるにつれて一つ一つ背負うものが増えていくことに対する悲観することなく、大事にすべきものを大事にしていくという非常にシンプルなことを続けていくことは自分の目指したい生き方だということに気づかされたのである。
音楽だけでなく空間デザインもそうだし、toeの活動全般やSNSで垣間見せる料理の上手さやウィットな笑いといった山嵜さんのセンスはただ憧れるしかないけれど、センスのいい生き方については、自分なりの正解を見つけていきたいと、山嵜さんの活動を見て日々思うのであります。
[amazonjs asin="B00WRITI7Y" locale="JP" title="HEAR YOU"]
2019年5月19日追記
大人になるってこういうことなのか、と考えさせられた一曲。
決してスローダウンではなく、突き詰めた進化。
posted with カエレバ